かの地に立って

まず、結論から書きます。発狂しそうになりました。とにかく恐ろしかった。あんな恐ろしい経験は初めてかもしれません。背筋が凍る、というより、薄ら寒い感じが延々続くというのでしょうか。でも、書かないといけません。

「収容所」という言葉から、イメージされるのは「汚いバラック」ではないかと思います。実はそれは「ブジェジンカ(ドイツ語では「ビルケナウ」)」という、アウシュヴィッツ第2収容所のこと(こちらも後で書きます)。もともとポーランドの町の名前であること、ドイツ軍がドイツ流に名前を変えたものであること、以上の理由から、以降は「オシフィエンチム」「ブジェジンカ」で統一することにします。

オシフィエンチムに到着して、まず感じたのは、とても美しい、ということ。実に美しい緑地の中に、それは木々に囲まれるように佇んでいました。オシフィエンチム収容所は、ブジェジンカと違い、レンガ造りの建物が整然と並んでいます。まず、「死の壁」と呼ばれる、処刑場所に行きます。

ここは、第10号棟と11号棟の間にあり、「死のブロック」と呼ばれた11号棟から、死刑宣告を受けた囚人が引き出されたところです。そして、この壁の前で、次々と、銃殺されていったそうです。10号棟の11号棟側の窓は、板で覆われています。処刑する光景を10号棟側から見せないためにしたそうです。これも、「むごいから」ではなく、「写真など、記録として保存されるとまずいから」だったようです。

28あるレンガ造りのブロックの中で、このスペースだけは、ブロックとブロックの間に分厚い壁が設けられ(これが死の壁)入り口は狭く作られていました。これも、外部に秘密が漏れることを恐れたためでしょうか。この前には、常に花やお供えのランプが絶えることはありません。ワタクシたちも、入り口で買ったお花を手向けて、お祈りをしました。
11号棟が混み合っていたため、ほかのブロックから見て周ります。ほとんどの建物は公開されています。

建物の中、廊下の壁には、おびただしい数の人々の顔写真。横、正面、斜め上を向いた、囚人の写真。ここで亡くなった方々の写真です。これが延々続いています。どのブロックの中も、そうでした。何人分なのか、見当もつきません。これを見て慄然としない人はいないでしょう。当時の写真、囚人たちの遺品、貴重な資料が展示されています。
そして11号棟、死のブロックです。死刑宣告が行われた部屋、死の壁に向かうため、衣服を脱がされた部屋、地下には、1941年9月、初めて毒ガス「チクロンB」による、集団虐殺実験がソ連軍捕虜に対して行われた部屋、「飢餓房」と呼ばれ、餓死を宣告された囚人が入る房、「立ち牢」と呼ばれた90センチ四方の房(ここに4人が入れられた。当然立つしかない。そのまま数日、数週間入れられっぱなしということもあったという。)など、見て周りました。
そして隣の10号棟へ。ここでは、人体実験なども行われていたようです。

有刺鉄線の外に出て、しばし歩くと「ガス室」があります。ドイツ軍の撤退時に証拠隠滅のため、破壊されたのですが、奇跡的に破壊を免れたものが残っています。第1ガス室とされるこの建物で、何が行われたか。簡単に解説します。

まず、片方の扉から、囚人を部屋に入れます。部屋を完全に閉めた後、天井の穴から「チクロンB」を投入。15〜20分で、窒息死したそうです。

ガス室の入り口と反対側には観察用の窓とドアが一枚。

ドアの向こうは焼却炉。

完全に計算された「死体工場」です。撮影していて手が震えました。何度も取り直しをしました。
その後外に出て、軽く昼食。その後、無料のシャトルバスでブジェジンカに向かいます。オシフィエンチムからは3キロほどの道のり。10分もかからずに到着。

ついた先には「死の門」。引込み線が敷かれ、列車がそのまま収容所内に入れるようにしてあります。この門をくぐると、外への出口は煙突のみ(焼却炉で焼かれた後)、ということで「死の門」と呼ばれたとか。

そして、門を囲むようにして有刺鉄線。その大きさに唖然となります。広い、とにかく広い。
死の門をくぐって収容所内へ。
まず目に入るのははるかかなたまで続く線路。ここに到着した列車から囚人が降ろされ、「選別」と呼ばれる「作業」がされました。運ばれてきた囚人の7割が直接ガス室に送られたそうです。
「プラットホーム」と呼ばれるものも、本当に粗末なつくり。列車の床面とフラットになるとか、そんなことはまったく考えられていません。当然野ざらし。胸が痛くなります。

そして囚人棟へ。作りは木造バラック。もともとは馬小屋だったそうです。

囚人の数が増大するにつれ、馬がいたところに人間が詰め込まれるようになったとか。それほど大きくもないバラックに詰め込まれた囚人の数は1000人。粗末な木製の三段ベッドに1段ごとに8人の人間が寝かせられていました。バラックの真ん中には暖房用の煙突。さすがに冬はマイナス20度にもなる土地だけに、そういうものが作られていたのでしょうが、どれぐらい効果があったかは、はっきり言って疑問です。

鉄道の線路に戻って、収容所の最も奥の場所を目指します。線路をたどっていったのですが、これが、長い。1キロぐらいはあると思われます。

歩いているとプラットホームが。その脇には監視塔。脳が麻痺してくるような、奇妙な感覚に襲われます。何、というわけではないのですが。

10分ほど歩いたでしょうか。線路の一番奥、「ナチス政権下犠牲者国際記念碑」に到着です。その名のとおり、ナチスによってここで虐殺された人々の慰霊碑です。さまざまな言葉で、メッセージが書かれています。これほど多くの民族を虐殺したのかと、しばし呆然です。相方とお祈りをして、隣にあったガス室跡に向かいます。

ここには焼却炉は5基あったようです。が、ひとつは1944年のユダヤ人特別労働班の反乱の時、ほかはナチス撤退時にすべて破壊されてしまっていました。その規模は、あきれるほど大きなもので、何人の人がここで殺されたのか、想像もつきません。ここでも相方とお祈りをしました。
この時点で4時過ぎ。クラクフに日が落ちる前に着くには、もう行かなければいけません。まだまだ見たいものはあったのですが、名残惜しく帰途に。クラクフに向かうバスの中、僕も相方も無言。とにかく考えることの多い一日でした。
僕の個人的な考えは、ここでは書きません。広島のときと同様、機会があれば、ぜひ行くことをお勧めします。あの地で見たもの、聞いたこと、感じたことは、あまりにも衝撃的でした。当時のままの姿で残されたさまざまな施設、当時のままの人々の写真、それらが無言で訴えてくるのを感じていただけるでしょう。

正しい戦争など、ないに違いないんです。